第一話
観測されない火
怪しげな儀式を行う女の影が、揺らめく燭台の明かりに、裂かれるように歪んで映っていた。床には蝋の滴が幾重にも固まり、乾ききらないそれが踏みしめられて、鈍い艶を返す。焦げた香の残りと、鉄臭い血の匂いが、湿った空気に絡みつき、喉の奥にいつまでも居座った。
古い言語で刻まれた円環文様。書かれたというより、削り出された痕のように床へ食い込み、壁を這い、鏡の縁へと連なっている。ところどころ、指でなぞったような擦過があり、その上だけが妙に黒い。
女は鏡の前に立つ。
古びた枠に収められたその鏡は、もはや“映す”ための道具ではない。埃を被り、鈍い光を返しながらも、面だけが不自然に澄んでいる。それは境界であり、門であり、こちら側と、向こう側を無理やり重ね合わせる面だった。
女が覗き込む。
そこにあったのは、彼女自身の姿ではない。
混沌の渦。
渦でありながら確かな秩序を宿し、秩序でありながら、あらゆる意味を拒絶するもの。色は色として定まらず、形は形として留まらない。ただ“在る”という事実だけが、冷たい圧となって目に刺さる。
この世界のすべてが、太古の星々の在り方が、人類が言葉を持つ以前、祈りも恐怖も存在しなかった時代の宇宙の輪郭が、一枚の面へ押し潰されるように収められている。
理解しようとするほど、理解のほうが剥がれていく。
鏡は告げる。
——真実を見せた。
——ならば、代償をよこせ。
——贄を捧げよ。
それは声ではない。音ですらない。ただ、理解だけが——命令の形をした理解だけが、女の脳裏へ一方的に流れ込んでくる。
女は憔悴していた。何日も眠っていない顔。ひび割れた唇。指先は細かく震え、爪の縁には乾いた黒ずみが残っている。それでも、その表情には拭いきれない満足があった。
——知ってしまった。
——見てしまった。
——戻れない。
狂気に濁った瞳で、女はゆっくりと、祈るように鏡へ手を伸ばす。指先が面へ触れる、その直前——
その瞬間だった。
女の身体が、内側から燃え始めた。炎は皮膚を舐めない。外から這い上がるのではなく、内側で咲く。血も、悲鳴も追い越して、骨と臓器を一気に焼き尽くし、呼吸を奪い、声を奪い、形だけを残して崩していく。断末魔が夜気を切り裂く。
次の瞬間、炎は床へ、壁へ、天井へと広がり、建物全体を飲み込んだ。遠くでサイレンの音が鳴り始める。それは現実の音なのに、どこか別の世界の合図のように響いた。
誰も知らない。
これは事故ではない。復讐でも、呪いでもない。
——ただ、反応だった。
---
イングランド、
カムデン・ロンドン自治区、ユーストン。
刺すような寒さに肩をすくめ、俺は朝の街を歩いていた。頬を撫でる風は乾いているのに、指先だけがじりじりと痛む。息を吐くたび、白い靄が一瞬だけ形を持って、すぐにほどけた。
この界隈には、古くからの趣を残した長屋が並んでいる。赤茶けた煉瓦の壁、低い軒先。洗いざらしのマットが玄関先に置かれ、窓辺には小さな鉢植えが寄り添う。飾り気はないのに、生活の温度だけが外へ滲み出している——そんな通りだ。
玄関先ではゴミ袋を手にした住人が顔を出し、短い挨拶を投げ合っている。眠そうな顔で職場へ向かう者、通学鞄を背負った子供、スマホと紙の地図を行き来しながら立ち止まる観光客。さまざまな人間が行き交い、街は確かにいつもの朝を迎えていた。
それなのに、俺だけが遅れている気がした。この街の時間に、俺だけが噛み合っていない。
吐く息は白く、その擦れる音だけがやけに大きく聞こえる。靴底が舗道を打つ音が、もう一人分あるように響く。自分の歩幅よりも、ほんの少し遅れて、ついてくる。
ふと、街角のショーウィンドウに自分の姿が映り込み、思わず足を止めた。
——びくり、と身体が震える。
映っているのは、間違いなく自分自身のはずだった。コートに身を包んだ、どこにでもいる男。だがガラスの向こうの『俺』は、こちらよりほんの少しだけ目が合いすぎる。見返している。——いや、見られている。胸の奥が、冷たい指で握り潰される。
近頃、妙なのだ。
誰かに見られている。いや、何かに。
家の中にいても、ベッドに横になって目を閉じても、視線のようなものが、常に背中に貼り付いている。振り返っても、そこには何もない。カーテンの揺れも、物音もない。
それでも——見られていないと感じたことがない。何かがおかしい。確実に。
俺は無意識に歩調を早め、ユーストンの一角に居を構える建物の前に立った。
《シャウラ探偵事務所》
控えめな看板。建物は古いが、きちんと手入れはされている。近所の長屋と同じように、当たり前にそこへ馴染んでいるのに、入口だけがどこか希薄。——境目が曖昧な感じがした。
この辺りではそれなりに評判の事務所だ。警察が相手にしない案件。少々、変わった相談にも応じてくれるらしい。ただ一点、噂には必ずこう続きがあった。
——中の人間が、だいぶ変わっている。
その瞬間だった。
突然、事務所の扉が勢いよく開いた。避ける間もなく、俺の顔面に直撃する。視界が白く弾け、鈍い衝撃が鼻梁を打つ。
「——っ!」
声にもならない音が漏れて、俺は仰向けに倒れ込んだ。同時に怒号が響いた。
「なんだこの事務所は!!人をバカにしているのか!もう二度と来るか、こんなところ!」
吐き捨てるように叫び、男は足早に通りを去っていく。背広を着こなした男だったが、立派な顎髭がどこか高圧的だった。肩で風を切る背中が、怒りというより恐怖で硬直しているようにも見えた。
その背中へ、扉の向こうから落ち着いた声が飛ぶ。
「はい、それで結構ですよ。お帰りの際は、二度と振り返らないことをおすすめします。次に振り返ると、余計なものまで連れてきますから」
意味が分からない。……なのに、なぜか笑えなかった。冗談だと片付けるには、声があまりに平然としていた。
地面に仰向けの俺をよそに、再び扉が開く。
「コル、塩を撒いておいてください。日本のおまじないだそうですよ」
その言葉とともに現れたのは、金髪の女性だった。右目を長い前髪で隠し、重たげな瞼の奥に、氷のように澄んだ青い瞳。整った顔立ちで、思わず息を呑むほどの美人——なのだが、視線の温度が妙に淡い。人を見ているのに、観察しているだけの目だ。
彼女は俺の存在に気づくよりも早く、白い何かを取り出し、玄関先に勢いよく撒いた。粉末が宙を舞う。冷たい空気の中で、それだけが白くきらめいて見えた。
「あ」
ようやく彼女はこちらを見下ろし、小さく声を漏らす。驚いたような顔。——だが、時既に遅し。
俺は、完全にそれを浴びていた。
---
「いやあ、失礼いたしました。うちの助手が」
「……貴方が塩を撒けと言ったんじゃないですか」
金髪の女性が、抑えた声でぼそりと刺す。謝罪の言葉を口にしている男の調子と、彼女の温度差が噛み合わない。
俺はいつの間にか奥へ通され、革張りのソファに沈み込んでいた。クッションは柔らかいのに、落ち着かない。沈むほどに、居場所が定まらない感じがする。
室内は一見整っている。書類は積まれていないし、床に物も落ちていない。だが整理とは別の意味で雑然としていた。本棚に並ぶ書籍は雑多で、法律書の背表紙の隣に、年代も判然としない古書が混ざっている。革装丁の背に金箔の文字。擦り切れた布表紙。ページの縁が不自然に黒いものまである。ここは探偵事務所のはずなのに、図書館というより、誰かの私的な収集室に近い。
目の前の椅子に、胡散臭い男がひとり腰掛けていた。長い赤髪を三つ編みにし、頭の後ろでひとつに束ねている。黒い丸眼鏡の奥の瞳は、貼り付けたような笑みのまま、こちらを正確に捉えて離さない。西洋とも東洋ともつかない顔立ち。訛りのないイギリス英語。細身で中性的な体つきに、足元は黒いハイヒール。こちらの基準では測れないという印象そのものが、目の前に座っている。
「申し遅れました」
男は穏やかに言った。声だけ聞けば、上等な接客だ。
「私はベンジャミン・スコルピウスと申します。ここ、シャウラ探偵事務所の所長です」
一瞬だけ間を置き、探るように視線をこちらへ滑らせる。笑みは崩れない。なのに、目だけは笑っていない——そういう種類の人間の目だ。
「それで……まずはお名前を伺っても?」
「俺は、ディラン・マードックといいます。実は……最近、妙なことが起こっていて」
「ほう。詳しく伺いましょう」
「実は、最近……誰かに見られているんです」
そう言って俺は、彼の表情を窺うように一度だけ見る。だがベンジャミンは眉ひとつ動かさず、ただ続きを促すように微笑んでいた。信じていないのか、信じているのか、それが分からない微笑みだった。
「ストーカーとか、そういう類じゃない。寝ている時も、どこにいても……」
言葉を選び、喉の奥の引っかかりを押し殺す。
「窓とか鏡とか、自分の姿が映る場所……そこから、誰かが俺を見ているんです」
沈黙が落ちる。重さはないのに、逃げ場がない。
「友人に話しても信じてもらえなくて。精神科の受診を勧められるばかりで……正直、もうどうしたらいいのか……」
思わず頭を抱えた、その時だった。
「どうぞ」
温かい紅茶が、そっと目の前に置かれる。カップがソーサーに触れる音は小さいのに、やけに鮮明に響いた。
コルと呼ばれていた助手の女性が、無表情のままティーカップを差し出していた。右目を隠す前髪の影が、白い頬に落ちている。氷みたいに澄んだ青い瞳は、こちらを見ているのに、どこか遠い。冷たい印象なのに、目を離せない。美しさが、体温ではなく刃物に近い。
「心中、お察しします」
ベンジャミンの声は終始穏やかだった。
「気が立っていらっしゃるようですし、まずは温かいお茶でも」
その態度が、なぜか胸に刺さる。優しさというより、落ち着かせるための手順に見えてしまったからだろうか。
「……はは。そうですよね。やっぱり、信じてもらえるわけないか。こんな話」
「信じないとは、一言も言っていませんよ」
ベンジャミンは即座に否定した。否定の仕方が、妙に正確だった。感情ではなく、定義を正すみたいに。
「ただ、情報が足りていない。もう少し、詳しく伺いたいだけです」
俺は半信半疑のまま紅茶へ手を伸ばす。湯気が指先を撫で、少しだけ落ち着く——はずだった。
——その瞬間だった。
映るはずのないものが、そこにいた。
水面に映った俺の顔が、わずかに歪む。歪んだ、というより、別の角度から押し込まれたような。次の瞬間、赤と緑が混ざり合い、名前のつけられない色へと変わっていく。水面が盛り上がり、“それ”がこちらへ手を伸ばした。
「うわっ!」
カップを取り落とす。高価そうな乾いた音を立て、ティーカップが床で砕け散った。熱い液体が膝へ跳ね、心臓が一拍遅れて跳ね上がる。
「大丈夫ですか? 火傷は?」
ベンジャミンが即座に立ち上がる。その動きだけが、今までの作り物めいた穏やかさと違って見えた。
「コル、すぐに拭くものを」
助手は無言で動き、濡れタオルを俺へ手渡す。同時に、割れた破片を迷いなく片付けていく。指先が欠片の間を滑るのに、躊躇がない。
「す、すみません……! 弁償します!」
俺は濡れタオルで手を拭い、ポケットからハンカチを取り出して、さらに指先を拭った。
「構いません」
ベンジャミンはあっさりと言った。
「それほど高価なものではありませんよ。……それより」
視線がまっすぐ俺を捉える。笑みは消えないのに、空気が変わる。
「今の反応。只事ではありませんね」
「……そうなんです」
声が震える。喉の奥が痛い。
「今も、確かに何かが映っていた。俺じゃない何かが笑いかけてきたと思ったら……水面が歪んで、手を伸ばしてきて……」
頭を抱える。言葉が足りない。言葉にするほど、現実味が削れていく。
「……やっぱり、俺はおかしくなってしまったんでしょうか」
しかし探偵は、落ち着いた態度を崩さない。
「ミスター・マードック」
静かに、しかし断定の形で呼ぶ。
「この国で、日々どれほどの事件が起きているか、ご存じですか?」
「さあ……まあ、パトカーのサイレンは日常茶飯事ですが」
「ええ」
ベンジャミンは立ち上がり、事務所の片隅に置かれたテレビへ目を向ける。午前のニュースが流れていた。焼け落ちた建物、規制線、担架。被害者女性に関する断片的な情報。映像だけで喉が乾く。
「ロンドン都市圏だけでも、“観測されているもの”だけで、軽犯罪を含めれば年間数千件の事件が起きています。今は、立て続けに連続放火事件も発生していますし」
画面の中で、黒い焦げ跡が無言で口を開けていた。
「そして……“観測されていないもの”は、もっと多い」
ベンジャミンは窓の外へ視線を移し、淡々と言葉を継ぐ。
「見えないからといって、存在しないわけではありませんからね」
胸の奥が、嫌な音を立てた。さっきの“手”が、まだ目の裏に残っている。
「私は、その“観測されていない事件”を扱うことが多い。……貴方は、運が良い」
「観測されていない……事件?」
「ええ。人がゴーストに取り憑かれたような状態になることがある。それで、妙な呪いに手を染めたり……まあ、いろいろやらかすんです」
探偵は振り返り、こちらを見た。笑みは柔らかいのに、否定の余地がない目だった。
「貴方は、それに巻き込まれた可能性が高い」
「……念のため確認しますが」
恐る恐る口を開く。
「俺は一応、敬虔なクリスチャンでして。新しい宗教とか、そういうものは……」
「ご安心を」
ベンジャミンは、くすりと笑った。軽さが、かえって怖い。
「私も敬虔な信徒です。礼拝にも行きますよ。……気が向いた時にだけですが」
軽く肩をすくめる。
「宗教勧誘ではありません。そうですね……塩を振りかけてしまったお詫びです」
彼は手をぱん、と鳴らした。合図の音が、室内に小さく響く。
「下調べの前金はいただきません。今日一日、貴方と行動を共にさせていただいても?」
合図と同時に、コルは俺の手から濡れ布巾を回収し、すでに鞄一式を持って戻ってきていた。準備が早すぎる。まるで最初から決まっていたみたいに。
「……信じて、くれるんですね」
思わず、そう漏らす。
ベンジャミンは柔らかく微笑み、はっきりと言った。
「ええ。もちろんです」
そして、続ける。
「我々に、お任せください」
---
俺は探偵に連れられて、イーストエンドの裏路地を歩いていた。
昼間だというのに、空は煤けたように低い。レンガの壁は雨を吸って黒ずみ、路地の奥はいつも薄暗い。ゴミ箱の蓋が半開きになっていて、野良猫の目だけが一瞬こちらを見て、すぐに消えた。
「あの、何故わざわざこんな場所に?」
「真っ昼間からここを歩く人間は多くありませんからね」
ベンジャミンは、いつもの貼り付けた笑みのまま言った。
「相当暇な人間か、物好きな観光客ぐらいですよ」
「はあ」
「有事の際に一般人を巻き込んだらまずいでしょう?」
その言い方が軽すぎて、背筋がぞくりとした。“有事”が、火事や喧嘩ではなく、もっと別のものを指している気がしたからだ。
「ま、巻き込むって……そんなに危険なんですか?」
「ご安心を。だから私たちがいるんです」
笑っているのに、目だけが冷静だ。対照的に、助手——コルは無表情のまま、彼と俺の一歩後ろをついてくる。足音が静かすぎて、追いかけられているのか、守られているのか分からない。
ベンジャミンは、路地の角を顎で示した。
「大丈夫ですよ。ご覧なさい。そこにも、あそこにも」
見上げると、古い外壁の角、街灯の根元、看板の陰——視線の代わりみたいに監視カメラが付いている。
「道ひとつで五つ。こんなところで犯罪を犯す人間はそうそういません。ある意味安全です」
そう言いながら、彼は何気なく付け足す。
「もっとも、放火事件の現場も、ちゃんと設置しておけば……せめて被害者の性別や身元が、分からなくなることはなかったでしょうに」
その一言が、胸に針みたいに刺さった。
「で、でも、俺に付き纏ってるのって……普通の犯罪者とか、そういうのじゃないんですよね!?」
「はは。それはそう」
乾いた笑い。聞いているのか、聞いていないのか、曖昧な返事——その瞬間だった。
ふっと、あたりが暗くなった。
雲が流れた、という暗さじゃない。まるで世界の明かりだけが一段階落とされたみたいに、色が鈍る。
大通りから聞こえていたはずの車の音が、消える。人の声も、遠いサイレンも、全部。耳栓をされたみたいに、街の“現実”が抜け落ちた。
明らかに異常だった。
ベンジャミンが俺の前へ、半歩だけ出る。コルも同時に立ち止まり、視線を周囲へ走らせた。二人の動きは、慣れていた。
——ぬるり、と。
形容しがたい湿った音が鳴り響く。洞窟の奥で水が滴る音を、街の真ん中に無理やり重ねたような。ごうごう、と低音が耳の奥で鳴り続ける。音というより、圧だ。
そして、ベンジャミンの背後——古い建物の窓ガラスが、ゆっくり歪んだ。
赤。緑。混ざり合って、名前のない色になる。ガラスは“映す”面であることを思い出したみたいに、勝手に世界を作り替え始める。
——贄を捧げよ。
声ではない。けれど意味だけが、脳へ直接叩き込まれる。
目を逸らしたい。なのに、逸らせない。逸らしたくない。見てはいけないと分かっているほど、見たいと感じてしまう。
窓に映し出されたのは、景色だった。この国ではない。ロンドンでもない。星そのものの皮膚——かつてあった姿。いや、“本来あるべき姿”。
地面が、地面の色を捨てる。空が、空の青を忘れる。岩なのか臓器なのか分からない塊が脈打ち、遠い海が黒い粘性で泡立ち、輪郭が意味を拒む。
そして、そこには“知性”がいる。人間の尺度で測れるような知性じゃない。見るだけで、理解のほうが壊れていく。
——そのとき。
突然、ぐい、と腕を引かれた。
「マードックさん!」
ベンジャミンの声が、現実の音として戻ってきて、俺は我に返る。
「走って!」
腕を引かれるまま、俺は走り出した。コルも並走する。彼女の息は乱れていない。俺だけが、みっともなく空気を掻き込む。
街の光景が歪んでいく。建物の角が、角であることをやめる。窓は窓でなくなる。看板の文字が、文字の意味を捨てて、ただの傷跡みたいに伸びていく。
空の色が変わる。地面の色が変わる。“ロンドン”という前提が、足元から剥がされていく。
「……Reversion(リヴァージョン)です」
ベンジャミンが息ひとつ乱さずに呟いた。
「……なんですって?」
「返還、とでも言いましょうか」
走りながら、彼は短く言葉を選ぶ。長い説明はしない。今それを聞く余裕がないと分かっている。
「この星が、“昔の姿”を思い出す現象です。人類がこの地上を自分のものだと思い込む、ずっと前の——」
「な、なんでこんな街中でそんなことが!?」
「貴方が目をつけられたからです」
ベンジャミンは、振り返らずに断言した。
「この星にもともと存在していた“先に立つ者”に。私はそれを——The Prior(プライアー)と呼んでいます。今回の怪事件の元凶です」
言い切ったところで、彼はコルの名を呼ぶ。
「コル。彼の自宅の住所は控えていますね」
コルは頷き、スマートフォンの地図を一瞥しただけで進路を定める。
「私の自宅!? 何故!?」
「一番安全だからです!」
その言葉に、安心より先に寒気が走る。“安全”が、常識の意味じゃない。
俺は探偵に言われるまま、助手の誘導に従い、息が切れるほど走り続けた。
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気付けば、あの奇妙な光景は消え失せていた。角を曲がった途端、街は何事もなかったように“いつもの顔”へ戻る。赤煉瓦の壁も、車の走行音も、人の笑い声も、すべてが正しい位置に収まっている。
現象は局所的らしい。だが、安心の仕方が分からない。いまの現実が本当に現実なのかすら、確信が持てないまま、俺はただ足を動かした。
「急いでください」
コルの短い誘導に従い、俺たちは俺の自宅へ駆け込んだ。
ドアを閉めた瞬間、ようやく肺の奥に空気が戻る。鍵を回す音が、やけに大きい。
ベンジャミンは室内を一瞥し、すぐに頷いた。
「やはり。そうですよね」
その口調は“確認”だった。驚きではなく、答え合わせ。
「貴方は姿を映すものを恐れている。ならば、家の中で映り込みそうなものは一通り処分するか、隠していると思いました」
「な、なるほど……」
冷静に考えればそうだ。だがさっきまで“街そのもの”が歪んでいたのだ。俺の頭はまだ追いついていなくて、ただ相槌を打つしかない。
部屋の中の鏡は、ことごとく布をかけられていた。姿見は壁へ向けて立てかけ、小さな化粧鏡は引き出しの奥。金属のトレーやガラスのフォトフレームも伏せられ、テレビにはカバー。光を返しそうな面は、まるで罪のように隠されている。
その一方で、生活の匂いは確かにあった。
スモークツリーのドライフラワーが、ラフに束ねられて壁に掛かっている。ジョー・マローンのキャンドルが、火を点けていないのに微かに甘い香りを滲ませる。コーヒーテーブルには読みかけの本と、マグカップの輪染み。——“普通の部屋”だ。
探偵は部屋をぐるりと見渡し——最後に、俺の手元を指差した。
「貴方が標的にされている原因ですが、そのハンカチです」
「ハンカチ?」
俺は無意識に指先を拭っていた布へ視線を落とし、差し出す。白いレース。男の手には少し浮く。けれど、捨てられない手触りだった。
ベンジャミンは受け取らず、目だけで確かめる。
「ええ。そのハンカチは何らかの儀式の媒介になっているのでしょう。あるいは、儀式を行った本人の“残り香”が強い」
淡々と言い切って、結論を置く。
「いずれにせよ、プライアーはそれを持つ貴方を、儀式を行った本人だと誤認している。鏡から這い出してきたものに渡してやれば、契約は完了し、怪異は収まります。ただし——」
「ただし?」
「一度この部屋に、プライアーを呼び寄せる必要があります」
笑みは柔らかいまま。だが選択肢はない声音だった。
「ご協力いただけますね?」
喉が鳴る。唾を飲む音さえ、怖い。
「渡すってどうやって? 全然、対話ができそうには——」
「まあ、そこはどうとでも」
ベンジャミンは肩をすくめる。
「ここはひとつ、私を信用していただけませんか?……信用していただかなくても、やるべきことはやりますが」
冗談めいているのに、妙に誠実だ。いや、“やる”ことだけは誠実で、“それ以外”はどうでもいい——そういう誠実さ。
「わ、わかりました。お願いしますよ、探偵さん」
「任せてください。では、はい」
差し出された手のひらに、俺は渋々ハンカチを渡した。ベンジャミンは布を受け取り、重さを確かめるように指先で一度だけ撫でる。
「ありがとうございます。思い入れのある品のようですが——構いませんね?」
「ええ。……もう二度と手に入らない品ですが、背に腹は変えられませんから」
「ええ。賢明です」
その返事が、やけに優しく聞こえて、逆に気味が悪かった。
「所長。こちらの姿見はいかがですか」
コルが、布をかけられた姿見の隣に立っている。彼女の指先が布の端を摘む。躊躇がない。
「ええ。ちょうど良いサイズですね。彼らもこちらを見つけやすいでしょう」
ベンジャミンは軽く顎を上げる。
「コルちゃん、布を剥ぎ取ったら、すぐに下がってください。危ないので」
「はい」
「ディランさんも、私より前に出ないように」
俺は黙って頷いた。頷くしかできない。
ベンジャミンは立ち位置を決め、部屋の空気を一度だけ吸う。まるで呼吸の仕方まで“儀式”みたいに整っている。
「それではいきますよ。——3、2、1」
カウントが終わると同時に、コルが布を剥ぎ取った。
鏡が、部屋の光を返す。その瞬間、俺の胃がひっくり返る。
鏡に俺と探偵が映る。映った俺が——笑う。
いや、俺は笑っていない。なのに鏡の中の口角だけが、遅れて持ち上がる。
景色が歪む。面が“門”へと変わる。ガラスの向こうで、赤と緑が絡み合い、名前のない色が泡立つ。
——真実を見せた。
——ならば、代償をよこせ。
——贄を捧げよ。
脳に直接、命令が刺さる。
「う、うわあああ!」
俺は叫んでいた。足が勝手に下がろうとするのに、視線だけは鏡から剥がれない。
だが、ベンジャミンは一歩も引かない。静かにサングラスを外し、目を見開く。
黒い瞳に、赤い螺旋がじわりと浮かび上がる。その赤は光ではなく、“意志”の形だった。
探偵は俺ではなく、鏡の中の“俺”と視線を合わせる。
「あなたの契約者は、どうやらいなくなってしまったようです」
声は穏やかで、残酷なほど落ち着いている。
「今回はこのハンカチで手を打ってください。本人だと誤認するほどに、本人の思念が籠っている」
赤い螺旋が、わずかに深く回る。
次の瞬間、鏡から伸びていた“手”の動きが、ぴたりと止まった。
ベンジャミンは空中へハンカチをふわりと放り、同時にナイフを抜く——銀の線が一閃する。
ハンカチと刃が、鏡へ叩きつけられた。
鏡は渦を巻き、ピシピシと乾いた音を立てながら布を飲み込む。次の瞬間、耐えきれない悲鳴のような割れ音がして、面が崩れ落ちた。
床に散るのは鏡の破片と、突き立ったナイフだけ。ハンカチは——どこにもない。
「もう大丈夫ですよ。無事にお帰りいただきました」
ベンジャミンは眼鏡を掛け直し、また作ったような笑みで振り向いた。さっきまでの赤い螺旋は、何事もなかったように消えている。
ソファの陰に身を縮めていたコルも、恐る恐る顔を出す。
「ほ、本当に……解決したんですか!?」
「ええ。これで安心です」
ベンジャミンは平然と言う。
「報酬の方は、お詫びも兼ねていますのでお安くしておきますよ。詳しい話は事務所に戻って——」
「ま、待ってください!」
俺は反射的に彼の袖を掴んでいた。触れた布地が、やけに現実的で、余計に怖い。
「その……何がなんだか……まだ混乱してて、解決した実感もなくて……」
言葉がもつれる。
「せめて今晩だけ、様子を見てくれませんか? 報酬は払います。ちゃんと」
一瞬、ベンジャミンの笑みが引き攣った。ほんの一瞬だけ、面倒だという本音が覗く。だがすぐに肩をすくめ、社交の顔へ戻る。
「まあ、追加料金をいただけるということであれば」
そして、ちらりとコルへ視線を投げる。短い合図。言葉にしない命令。
「——というわけなので、コルちゃんは先に戻って事務処理などお願いできますか?」
コルは俺とベンジャミンを交互に見つめ、こくりと頷いた。本当は彼女にも残ってほしかった。だが、それを口にすると、また別の何かが起きそうで言えない。
彼女は鞄を持ち直し、静かに玄関へ向かった。扉が閉まる音が、まるで合図みたいに、部屋に残った。
---
助手が帰った後、部屋に残ったのは、割れた鏡の破片と、奇妙に整った静けさだった。俺は足先で破片を壁際へ寄せる。ガラスが擦れる音が、やけに長く耳に残る。——片付けなきゃ。そう思うのに、手で拾う気にはなれなかった。
代わりにキッチンへ行ってサンドイッチを作る。パンを切り、具を挟む。たったそれだけの作業が、ひどく救いに思えた。現実は、こういう手順で出来ているはずだ。火傷の痛みと、まだ鼻の奥に残る焦げの気配を飲み込む。
「探偵さんは、そこのソファを自由に使ってください」
言いながら棚からボトルを取り出す。
「それと、お礼と言ってはなんですが……こちらのワインを、よかったら——」
「ありがとうございます。しかし」
ベンジャミンは笑みを崩さないまま、首を軽く振った。
「一応、今も職務中ですので」
「そ、そうですよね。俺の方からお願いしたのに、すみません。でしたら、お茶でもどうです?」
「紅茶であれば、喜んで」
その返事が、妙に“普通”で、逆に落ち着かなかった。この男は怪異を見ても平然としているくせに、時に礼儀正しい。その落差が、少々不気味だ。
湯を沸かし、茶葉を蒸らし、カップへ注ぐ。立ち上る湯気が部屋の冷えた空気を少しだけ溶かし、ほんの一瞬、家らしくなる。探偵へ差し出した、そのタイミングで——インターホンが鳴った。
「……こんな時間に?」
心臓が跳ねる。反射的に声を整える。
「ちょっと見てきますね」
断りを入れて玄関へ向かい、モニターを覗く。そこには誰もいない。ドアスコープも同じだ。暗い廊下が、ただ空っぽに映っている。胸の奥がひやりと冷える。いたずらにしては気味が悪い。けれど、これ以上確かめる勇気もない。
そのままリビングへ戻ると——ベンジャミンはソファに横になり、眠っていた。まるで最初からそこが寝床だったみたいに自然だ。カップの中は半分まで減っている。湯気はもう立っていない。
「……え?」
声が漏れる。早すぎる。けれど、助かった。これで朝まで目を覚ますことはないだろう。
息を殺し、身支度を整える。鞄に道具を詰める。耐火用の靴、手袋、服——火に備える装い。玄関へ向かい、鍵へ手を伸ばした、そのとき。
「おや」
背後から、軽い声がした。
「貴方が怖いから一緒にいてくれとおっしゃったのに。つれないですねえ」
振り返る。探偵が起き上がり、ソファに足を組んで座っていた。眠っていた顔ではない。最初から、ずっとこちらを見ていた目だ。
「……!」
言葉が喉で詰まる。
「蠍に毒を盛ろうなんて、百年早いですよ」
「な、なんの話ですか。探偵さん、お疲れのようだったので……今のうちに、買い物でも行こうかと……」
「テスコへ向かうにしては、荷物が多すぎやしませんか?」
視線が鞄の膨らみを正確に指す。その一言で、俺の嘘が“形”になる。
「それは……」
後ずさると、背中が壁へ触れ、掛けられたドライフラワーがくしゃりと潰れた。乾いた音。甘い香りの奥で、別の匂いが立ち上がる気がして、胃が縮む。
ベンジャミンは部屋を一度だけ見回した。その視線は鑑賞ではない。鑑定でもない。——解剖だ。
「随分、“トロフィー”がお好きなようですね。この煩雑とした部屋に、可愛らしいドライフラワーやキャンドルをあえて飾る趣味がおありで?」
笑みが深くなる。
「恋人からのプレゼントの可能性もゼロではない。……ですが、逆にそれ以外に恋人の痕跡がない。日用品、歯ブラシの二本目、髪留めひとつ。そういう“生活の重なり”が、この家には存在しない」
探偵は床の隅——さきほど寄せた鏡の破片へ目を落とす。割れた面の中の“こちら側”と“向こう側”を数え上げるような目だった。
「あのハンカチも、そうだったのでしょう? 失礼ですが、貴方のようにラフな装いの男性がレースのハンカチを持つのは少々不自然です。爪も指先も手入れがなされていない。……そんな方が、律儀に“綺麗なハンカチ”を持ち歩くことに、違和感を覚えた」
「貴方だって男のくせに、ハイヒールを履いている」
吐き捨てるように言う。だが探偵は一瞬瞬きをしただけで、何事もなかったように続けた。
「腕、火傷されていますね。濡れタオルで拭った際に見えてしまいました」
少しだけ首を傾げる。
「それに……どうやらお気づきではないようだ。ずっと籠っていたからですか?」
「なんのことです」
「貴方の体に、灰の匂いが染み付いている。あのハンカチに染み付いていたものと同じ——独特の灰の香り。人が燃えた時の香りが」
言い終えるまで、探偵は一度も目を逸らさない。逃げ道を、言葉の中から奪っていく。
「連続放火殺人事件の真犯人は、貴方だ。ディラン・マードック」
——そこで、俺の中の何かが弾けた。笑いが込み上げて、止まらない。喉が痛いほど笑って、ようやく呼吸を取り戻してから、俺は語り始める。
「この世界は虚しい。何をやってもダメだった」
言葉が、やけに滑らかに出てくる。
「でもある時、俺に手を差し伸べてくれた人がいたんだ。仕事も失って、雨に濡れて……絶望してた俺に、そっとストールを差し出してくれた女性が」
記憶の匂いが、舌に乗る。
「俺は、その優しい香りの虜になった。調べ上げて、自宅を見つけて、告白して……でも受け入れられなかった」
笑う。
「俺の思いと、優しい香りだけがその場に残った。耐えられなかった。だから殺して、燃やした」
そこで一度、息を吸う。吸った空気が、胸の奥で焼ける。
「その時、俺は“人が燃えた匂い”を初めて知ったんだ。染み付いて、消えない。強烈に、鮮烈に」
目の奥が熱い。
「もっともっと欲しくなった。だから燃やし続けた。惚れた相手を、殺して、燃やした」
そして、最後に唇を吊り上げる。
「次はあんたの助手の番なんだ」
探偵はソファから立ち上がり、ゆっくりと俺に歩み寄る。
「この世界は虚しいですよね」
意外にも、その口から出たのは共感の言葉だった。優しい声。慰める声。——救う声。
「私は、貴方のような人を救うためにいます」
ベンジャミンは手を伸ばし、俺の頬に触れた。静かに。愛しむような目で、俺を見た。
心臓が高鳴る。そうだ。俺が本当に求めていたのは、彼のような人間だったのかもしれない。目が離せない。黒い瞳から。赤い螺旋の渦から。
体が、動かない。
「この世界は虚しい。だからこそ——私は救済する」
囁きは、甘い。
「この世界から、貴方のような人々を解放することで。救いを与えましょう」
眼前で、何かが閃いた。銀色の太刀筋。ナイフの刃先が、俺の指先を掠める。ほんのわずかに。蜂に刺されたみたいな痛み。
次の瞬間、全身が沸騰したように熱くなる。
熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。
嗚呼——俺は今、灼かれているのか。これで、俺も、誰かの——
---
寒空の下、赤い髪の男は外套の襟を立て、短く息を吐いた。白い靄が街灯の光にほどけて消える。指先は冷えているのに、頭の中だけは妙に冴えていた。
彼は携帯を耳に当てる。
「私です。ええ」
相手の返事を待つ間すら、長く感じない。声は平坦で、事務連絡の調子だった。
「最近うちのシマで、勝手に暴れ回っていた放火犯は始末しました。後は頼みます」
少しだけ間を置き、続ける。
「報酬は——いつも通りの場所へお願いします」
通話はそれで終わった。切った画面に映る自分の顔を一瞬だけ見て、男は何も考えないふりをしたまま歩き出す。
帰路。ユーストンの街はすでに夜の匂いを纏い、店の明かりは薄く、通りの人影もまばらだ。だが彼にとっては、ここもまた“職場”の延長でしかない。
《シャウラ探偵事務所》
控えめな看板が出迎える。まだ明かりは点いている。扉の向こうに、あの静けさが残っているのが分かった。
鍵を回し、扉を開ける。
その瞬間、すぐ足元に気配があった。
コルが、扉のすぐそばでうずくまって待っていた。壁に背を預け、膝を抱えるような姿勢。夜気が彼女の髪を冷やしているのが、見ただけで分かる。
彼女は驚いたように顔を上げる。青い瞳が、眠気でも不安でもない“何か”を揺らした。
「早いお戻りですね」
「風邪を引きますよ」
男——ベンジャミンは眉尻を下げて、困ったように笑った。責めるでもなく、叱るでもなく、ただ当たり前のことを言う声だ。
そして、手を差し出す。
コルは何も言わない。けれど一瞬だけ、息を飲むように目を伏せた。——何かを察したのだ。今夜の出来事の終わり方を。あるいは、終わっていないことを。
彼女はそのまま、静かに彼の手を取る。
指先が触れ合う。冷たさが伝わる。男はほんの少しだけ手を握り返してから、いつもの調子に戻った。
「紅茶を入れましょう」
扉を閉める音が、外の寒さを断ち切った。
「お帰りなさい。——シャオウ」
最後の名だけが、やけに柔らかく響いた。